株式会社グリーン・アート松本社長雑記

経営にそして仕事に対する熱い思いをほとばしらせます。
ここでは後ろ向きなこと、ぼやき、愚痴、低いテンションはいっさい御法度。
真摯なスタイルで綴ります。

便利な時代

本当に、便利な時代だ。

インターネット、メール、携帯、スマフォ、SNS、LINE
ダウンロード、ファイヤーストレージ、動画、ゲーム

夢のようだ。まるで魔法だ。なんなりとつながる。
いくらでも仕事がはかどし、共有もしやすい。
便利だ。・・まあ楽にはならないけど。

何をどうして、どこに、どう聞けばいいのかわからないことでも
とりあえずグーグル様に聞けば大概のことはわかる。

モノの名前ど忘れしても、ネットならなんとかなる。
人とのコミュニケーションも簡単にできる。

終始、いろんな人とがっちりつながっている・・ような気になる。

ただし、双方がお互いにつながろうとしなければ
永遠につながらない。宇宙空間に放り出されて通信不能になるくらい
コミュニケーションなど全くの闇の彼方だ。

便利なツールの使い方は、便利なだけに誰にでもすぐ使えるようになる。
ただ、時代の流れが早過ぎて、マナーやルール、社会常識などを
習得したり、共有する場がない。

まあ、ただのツールなんで、人間性とは全く関係ない話だが。
悪いやつらがうまくツール悪用するのは当然。
仕事での利用方法をうまく整えるのは企業の必然。

メール送っても全く返信がなく、闇の彼方に消え行く心細さ。
電波の糸をハサミで切られたような無力さ。
面倒なゴミは そのままコンビニのゴミ箱に捨ててしまうような
身勝手な手軽さ。

そんな人が多くはないのだが、少しでもいると寂しい。
就職関係や、ネットでの問合せなどでも結構多いと感じてしまう。

いやいや、後ろを見ずに前だけ向きましょう。
なんでもいいからつなげていきましょう。

ネットとか関係なく、まだまだ原始的な方法もいっぱいあるし・・

本当に、幸せな時代だ。

効率をあげる。

本日から4月だ。
新年度である。
もうすぐ桜が満開になるのだよ。

2月逃げる、3月去るというが、ほんとうに
1月、2月、3月は早かった。

納期、仕事、時間、人、・・・金 いろんなものに追いかけられているからだろうか?
私が言うのもなんだが、まだまだ体の中身が季節に追いついていない。

昔から言われる事だが
社員は、仕事がMAX繁忙期状態の地獄ことを考え
経営者は、MAX閑散期状態の恐怖を考える。

1年中、毎日が繁忙期ならそれは繁忙期と言わない。
日常のふつうのことだ・・・

毎日が繁忙期なら、実は体も頭も心もそれに慣れ、
それを乗り切る技術がつくというもんだ。/p>

効率をあげる、無駄をなくす、手間を減らす。

乗り切る技術とは、これに他ならない。
なまじ閑散期があるから、絶好調でまわるモーターが冷えてしまう。
効率のために多少金を使っても、充分あとで回収できるのだ。

無駄といえば、「何かを探している時間」、これほど無駄でストレスの
たまるものはない。
書類、資料、工具、文房具、データ・・・

とある会社では引き出しに2本以上のペンを入れないとあった。
何本もペンがあると、どちらを使おうか迷うので、その迷いの時間が
無駄だというのだ。

なるほど、そこまではいかなくとも無駄は減らした方がいい。
そのためには、いらないものは処分すべきなのである。

公使ともに「効率をあげる」それこそが
今年度キーワードだ。
そして、毎日を繁忙期にしよう。

トラブルを解決する。

昔、何かで読んだ事があるが、

トラブルというものは、何もかも色んなものが
同時にやってきて「ダマ」のようになってしまうのが
トラブルであると。

「ダマ」とはそう、糸がこじれて、もつれて
ひとつの固まりになってどうにもならない状態の事。

血液の流れと似ているかもしれない。
血液の流れに障害をもたらす血液の「ダマ」は
いろんな病気の原因になる。

つまり、その「ダマ」の状態にパニックになる事、
どうしていいかわからず投げ出してしまう事、
または、まるまる見過ごしてしまう事、
そして、どんどん「ダマ」が大きくなっていく事、
それがトラブルである。

根本的な解決策はというと
その「ダマ」自身を切り取ること・・・ではなく
一本、一本ほどいていくこと以外にはない。

落ち着いて対処すれば、さほどたいしたことではない。
「ダマ」の状態が、大問題なのであって
「ダマ」の原因は、とても簡単な結び目の集合に過ぎない。

もしトラブルがあれば、その場の解決は迅速に行うとして
後日、その原因をゆっくり解明していかねばならない。

トラブルの素は、決して難しい技術的な問題ではない。
きわめて初歩的な人的ミス、不注意、心がけの問題がほとんどだ。

改善しようと思えば、いつでも誰でもできることなのだ。
だから一番難しいのかもしれない。

ほぼ毎日のようにあるトラブルに対して
その原因の究明と「ダマ」にならない工夫を日々、

ちびちびやっていくしかない。

それが成長ってもんであろう。

夢の現場。

創造することも大事だけど、同じくらい大切なことは
記録することだ。

それは大きく人類的に見れば「歴史」になるし、
小さな会社レベルで語ると「報告」とも言える。

古今東西、会議には書記という人がつきものだ。
古代ローマでは書記というと・・・・・・

いやいやそんな話はこの際どうでもいい。
まず弊社の例で語るがいい。

弊社の仕事のほとんどは、いわゆる「本番」が終わると
あとかたもなく消えさる。
「会期中」というものがなくなると移動遊園地のごとくノスタルジックに消える。
弊社は未来永劫残る、歴史的建造物を作っているわけではないし、
どこかの誰かが居住して、心休まる空間を提供しているわけでもない。

今のイベントが終わると、思い出の中にしか残らないのである。

だから、こういう会社こそ、きっちりと記録を残さないと
何も残らないのである。

何のために記録を残すのか?
その役割はいみじくも「歴史」と同じ。
・・・それは成長するためである。
失敗したこと、残念だったこと、ここはこうすべきであった事、
または、とても誇り高いことであった事、感動的であったこと。
その原因と理由を探り、それを参考資料にしながら
1mmでも前にいくため。二度と同じ過ちを繰り返さない術を見つけるため。

そしてそれを担当者レベルでかかえず、全員で共有する。
その記録が膨大でかっちりとしたものなら、その上に築いていくものは
より高く、堅牢に積み上がっていくだろう。

で、記録って何?
とかいう人に。

まず書類だ。きっちりと書く。予定と結果を両方書く。
そして写真。何よりも写真だ。誰に見せても解りやすい記録メディア。

写真。

SNSとかHPにアップするためではないのだ。
自分たちの仕事の記録のための写真であり、それは報告書と変わりはない。
会社命令である。

本当に便利な時代になったもんだ。
現像代がいらないし、メールでも送れるのだから。
ほんの十何年前に比べれば夢のような時代だ。

写真一つのこってない現場は現実にあったのかどうか、
それこそ夢見てたんじゃないの?と言われないようにしたい。

究極の仕事

私は戦争に行った事がないし、とりわけ戦争に詳しいわけではない。

一つ言えるのは、戦争は「ドンパチ」するだけが戦争ではない。

多くをしめるそれ以外は全て「準備期間」 なのではないのか。
「ドンパチ」は最終の結果にすぎない。またはごく一部の象徴でしかない。

段取り事や作戦をたてる。橋を作る、道を作る、封鎖する。訓練する。
もしくは、戦闘員のモチベーションを高める。
パレードする。マスコミ操作して市民煽動するなども含めて。
すべて、「ドンパチ」に至らぬ地味な仕事なのである。/p>

結局、戦争とは総合力である。
「ドンパチ」だけにすぐれていても戦争には勝てないのだ。

それはとても「経営」によく似ている。
つまり戦争とは究極の仕事に他ならない。

現場のみがいくら優れていても経営はよくならないのだ。

ということは「ドンパチ 」やる人とは別にバックヤードで
準備する人がたくさん必要になる違いない。非戦闘員である。
塹壕掘る人、戦車や戦闘機のメンテする人、電気工事する人、
飯炊く人、橋つくる人、物資調達する人・・・

名もなきヒーローが実はバックヤードの随所に存在する。
準備することが軍隊を最強にさせるのである。

全て戦争はバックヤードで始まっている。
営業以外の仕事する人も実は全て営業員であるということ。/p>

これを忘れてはならない。

だから社長の仕事って「DMの封書あける事かよ!」と
ぼやいてはいけない。
100通のDMの中には、1通、大切な「救世主」がまじっている
かもしれない。

地道な事をやりつづける。

それも立派な経営なのである。

サービズ製造業

私たちの仕事は、サービス業である。
製造業に近いが、少し違う。

製造業は規格にのっとり、ラインにのせて
指示された物を適性な個数を製造すること。

一方、我々はサービス業だからモノを作るだけでなく
指定の場所に、指定の時間に、設置して(気持ちのいい段取りで)
予算内で全て納める。
いわば、「サービス製造業」なのである。

残念なことに、顧客のイメージと違うようであれば、
一緒に、あるいは独自に考え、メンテ、補修、改造、していく必要がある。

とても制約が多くて、手離れの悪い仕事である。
しかし、うまくいった時の達成感と顧客と分かち合えた感動と幸福と
いったら、こんなにやりがいのある仕事はない。

まずもって常に意識しなければならないのは
世の中にないものを作っていく事が 第一の我らの使命である。

なので、顧客から「こんなもの」作って欲しいといわれれば
インターネットで探して,右から左に売ってはいけないのである。

いやいや、ネットで探すのは自由だし、情報を仕入れるのはいいのだが、
探し出したものにひと加工加えてみたり、ひと手間加えるのが
プロのサービス製造業だといえる。

それは付加価値とも言える。

その付加価値を自ら切り捨ててしまうようなことがあってはならない。
高い材料を使うのが付加価値ではない。
材料は安く、アイデアと組み合わせにより,付加価値を高くする事が
会社のミッションである。

私の1年の計

2014年、平成26年 あけましておめでとうございます。
旧年中は、大変多忙な1年でした。 

2012年は例えて言うなら
種まき、仕込み、の年であった。
出た釘を打ちにいく、はずれかけたネジをはずしにいく、年だった。
魚をつりにいくのにまず餌となるミミズをとりに畑にいくためにスコップ用意する、
facebookの渦に巻き込まれたり、Youtubeの可能性に感動したりと
そんな1年でした。

ただ、会社にとって大事な仕事を忘れていたよう気がします。

日々の雑務や数字を追いかけすぎて
社内に夢を語る事を忘れてたようです。

漫画「ワンピース」でいうところの
「俺は絶対海賊王になる!!」
といったような、実現可能かどうかはわからないが、わかりやすい夢を
語れていなかったようです。

会社に対する「社長の思い」がいくら強くても
社員に伝わらなければ、もしくは社外ににじみだせていないのであれば
何の意味もないこです。

今年の私のテーマはまず夢を語ること。
夢とは目標なのか目的なのかビジョンなのか?
そしてそれをどのように伝えていくのか?
いつのタイミングで伝えようとするのか?
ポイントはありますが、

まずは
「海賊王になる!!」とか恥ずかしいなどと思わず、

冷静に熱く語れるようにしていきます。

今年もよろしくお願いいたします。

プロセスありき。

仕事する上で
常に、感謝の気持ちを持つこと、
安全に事故なく現場が完了する事が
まずは何よりも大切である。

自分なりに仕上がった仕事に満足と
達成感を憶えるのもいいだろう。

ただ、私たちの仕事は結果だけではない。

そこまでいくプロセスはどうだったのか?
仕事の進め方はどうであったのか?
原価管理はきっちりおこなっていたのか?
そこに携わる人間が役割をきっちり理解していたのか?
お客様の満足度はどうだったのか?

何十年もこの仕事をやっているプロだから
結果がそれなりに仕上がるのは当たり前だ。
そこにもはや評価などない。

評価あるべきところは
>
その行程管理をどこまで実践できたのか?
発注者、クライアントの要望に近づけたのか?
>反省したのか?
失敗や思惑違いがあるなら、次につなげられるのか?
改善できるのか?

感動はあったのか?

仕事はこれの繰り返しと継続だ。
一回ずつリセットしてたのでは上にあがれない。

決して攻撃しているのではない。

ということを踏まえて
強くしつこく
前にすすんでいこう。

言ってはいけない言葉。

先日、とある高級居酒屋での話。
国産うなぎの白焼きがあったので注文した。
蒲焼きもあったが、ここはあえて白焼きを頼んだ。

しばらくして料理が出てきた。
店主自ら運んできたその料理は白焼きではなく、うなぎの蒲焼きだった。
その若い店主曰く「白焼きのご注文でしたが、蒲焼きの方が絶対おいしいし、
おすすめなのでこちらを出させていただきます。」

その場では何も言わなかったが
私は心の中で叫んだ。「ダウト!」
この店は言ってはいけない言葉を言ったなと・・・残念。

出来る事、無理な事、得意な事、好きな事・・・
まあ、いろいろある。

みな、それなりに能力に差があるであろうが
各々、頑張っているのだ。
実力に差があるのは当然なのだから、それなりに気持ちの上で前にすすめば
それはそれで美しい。

しかし、果たしてそうなのか?
いくら本人が、努力していようが、
プロとして言ってしまってはいけない言葉がある。

それを言ってしまったら、もう終わり、全部見切れたような。

と言いながらも、はたして弊社の場合はどうなのだろうか?
お客さんにダウトなことを言ってしまってるのではないだろうか?
白焼きの口の人に勝手に蒲焼き出してないだろうか?/p>

弊社こそ、お客さんに言ってはいけない言葉たくさんある

私はとにかく「無理です」という言葉が拒絶全面にでていて嫌いだ。
せめて「難しいです」にかえてほしい。
「難しい」なら、「難しいけどできなくもないかなあ」という部分が残っている。
少しばかり前向きな感じがいい。

言葉ひとつで、お客をなくす。
ひきしめよう。

むちゃくちゃうまいというわけでもない、その普通の蒲焼きを食べながら、
黙って考え込んだ夏の夜である。